終わった後別の御理解がある

昭和52年07月08日 朝の御理解



 御神訓 一、「若い者は本心の柱に虫を入らせなよと御座います。」

 今ここへ参りましたら学院の秋山君から手紙が来ております。まだ彼が今二十いくつでしょうか。二か三でしょうか。若い人がの信心に打ち向こうとる姿が、まぁだこう一ページしか読んでおりませんけれども。恐らくこういう生き方で行くならば、いかに若い者でも本心の柱に虫を要らせる様な事、ないだろうと思われる手紙ですから。まだ読んでおりませんけれども皆さんと一緒にまぁ、味わいながら聞かせて頂きましょう。
 秋山誠治先生の手紙拝読
 【親先生、親奥様、若先生有り難うございます。今私は改まり改まりの信心をさせて頂いております。でも人間とは弱い者で、つくづく自分の改まりのないところを分からせて頂きます。真剣に親先生の心を神様の心をまだまだ、いや全然と言っていい程の私ですけど。眼目だけは心におき学院生活を送っています。こちらでも合楽と同じ時間に夏期信行を頂いています。もう何と言いますか。この時間が来るのが楽しんで楽しんで、1時の鐘が鳴ると同時に私の体全体に、合楽の感動が伝わってきます。
 有り難い有り難いひとときです。そして今日よりミニ御理解が送って来ています。もうただ親先生有り難う御座いますしか今の私にはありません。そして最近思います事は、日々の御理解を聞いてこそ真の信心が分かっていくと思います。たまたま聞いたとしても私達が伝えただけでは結局は、その時だけ。矢張り一度合楽を通らねば、真の信心へとはそこで合楽の信心を頂いている、私達早くにも親先生の心を分かり、布教に出毎日御理解を頂ける教会を、また御理解を出来る取次ぎ者に。
 もうそしてそうしていかねば多くの人に合楽の信心を分かって貰える事は・・・。合楽の信心を多くの人が分かる事によって和賀心時代が決して出来んではありません。そう思うとまだまだの自分が分かります。親先生の心を神様の心を心として、確実に受け切れる自分に合楽示現活動に参画する、と言う事は実証していかねばならんと思います。見やすく、分かりやすくそして有り難くてしかも楽しく。子供でも出来る合楽理念。信心とは有り難くなって行かねば。
 ここで日々が更な事は日々が、真の御理解を頂いて行く事が更ではないでしょうか。愈々親先生の心を分かり、改まりの信心へと進ませて頂きます。ふと考えますに今の私の思いは今だけかも知れませんと思い。この思いを持ち続けるにはとのご祈念をしていたら。『真心』と頂きました。そして心が永遠に続いている所でした。・・】御心眼を頂いておるここに絵を描いております。真の心という心をずっと長くて頂いてですね、これはこう。【・・・そして永遠に続いている所でした。
 いつどんな時でも真をもっていればその心は続くと私は頂きました。今から先この真だけは心に置き、どんな壁にぶつかっても前進させて頂きます。どうぞ親先生よろしくお願い致します。甘い、甘い甘すぎる私ですけれど、それから合楽の信心を通して色々と体験させて頂いています。書き尽せない程に他修行生五人も、それぞれ合楽の信心を深めて行っております。私も負けないように親先生の心を求めて行っています。有り難う御座います。親先生有り難う御座います。
 早く親先生の心を分かりたい今です。ミニ御理解のお許し有り難う御座います。合掌】若い者は本心の柱に虫を入らせなと言われる。まぁまだ二十二、三の若い青年がこの生き方で行ったら絶対虫は入らんでしょうね。昨日南米から又便りが御座いました。あちらは丁度冬あの、七月一日からここは夏の修行ですけども。あちらは冬の寒中修行に入って、あの冬休みになっておりますと言う事です。それで三十日の大祓い式もここと同じ時間に執り行わせて頂きました。
 まぁ月並祭くらいな事じゃろうと思うておりましたら、とてもとてもそれを聞き伝えて。沢山の参拝があって慌てて仮の祭場を作って、それに入りきらんほどしの参拝者がございました。自動車だけでも八十台大祓いをさせて頂きました。家族何十家族じゃったか。あん。六十家族の祓えつものを出させてもらいました。と言う様なそれからその日はサンパウロからも御参拝があった。
 もう大変な難儀な問題を持ち込んでみえておられます。と言う様にですなら漸く二ヶ月足らずのなら、ビリグイでその様なおかげを頂いておると言う事が、なら末永先生があのいわゆる、青年時代に一番始めに合楽に通い、参りましたら夜の御祈念が九時に終わった時に丁度参って来ました。久留米から歩いて参拝させて頂いたと言うて、歩いて参って来ました。それから御祈念をしてそれからまた歩いて帰りました。皆で後ろ姿をまぁそれこそ拝ませて頂きながら。
 もうほんなこてほれぼれするねと言うたのが、末永先生と初めてです。合楽との出会いでした。それから間もなく仕事の方を止めて修行に入りまして(?)十年間。それこそ心に虫を入らせない。いうならあの様な修行をさせて頂いて。なら今日あの様なおかげを頂いておると言う事がね。これはなら若い者だけの事ではありません。お互いがそうです。今私がこれを読ませて頂いておる時に、繰り返し頂きましたのは。
 あの登山をする時にリュックを担いで、そしてあの命綱といいますか、綱を肩にかけてあれはなんち言うですかこう。ピッケルと言うですか。あれを担いでおる今から登山をするという。あの言う様な姿をこう読みながら頂きました。ね。ですから私はもう問題はその姿勢だと。とてもこんな山は登られん。いやと思うほどいうならば、自分の心を湧き立って来るのですね。登山をする人達は。そしてそれを征服する。征服欲というかね。いうならば頂上を極める喜び楽しみというでしょうか。
 それにはね、例えば夏山とか冬山とかと言われますが。それこそ甘くて見てですね。いうならあの冬山に薄着して凍え死んだ。と言う様なあれは毎年沢山おられますよね。結局山を甘く見てはいけない。もう登るからには矢張り所謂、身拵えから足拵えからそしてなら持って行かなければならんものも。一つでもその忘れる事のないようにした身拵えのその御心眼様子頂いて。
 今誠治君があの願っておる事は。こう言う様な勢いとこういう姿勢で、神様に取り組んでおるのじゃなかろうかと、いうふうに思わせて頂きます。ね。これは結局だから若い者だけのことではありません。まぁ、信心が若いといやお互いは若いのですからね。いわゆる姿勢が求められております。ね。その姿勢もですね、本気で身拵えができておるか。足拵えできておるか。
 愈々山を登らせて、これから先信心のどういう山の峠にぶつかるか、壁にぶつかるかは分かりませんけれども。ね。そこには命綱もあり。いわゆるピッケルもありね。又はリュックサックにはその例えどういうまぁ、災難にあってもどっこいと受け止められるだけの。それこそ愈々おさおさ怠りない所の体の拵えというか準備というか。そういうものを私はしっかり、日頃の信心で身に着けていかなければいけないね。もう大丈夫もう有り難いと言うとるけれども。
 何かその一つ泣き所と言った様なものを、ちょっと押されるとそれがグラグラする。昨日やっぱり学院の千恵子さんから手紙が来ました。それがその子供が手紙をやった。そしたら子供の手紙を見たら、もう今度はもう早う帰ろうちて早う帰えりたくて。ちょいとも帰って。それはもう大変な今修行をさせて頂いて。もう毎日毎日が有り難うして有り難うして応えんち言いよったです。
 ところが子供がそのめんめんとその手紙を出したんですよね。そうしたらもう今でも帰りたい、もうどうにもこうにもしようがないから奥城に参りまして、で奥城で泣くだけで泣いて帰ったという手紙が来ました。もうこの人の信心は素晴らしいです。素晴らしいけれどもその泣きどころというですか。もうそれはそう当たり前です。親一人子一人でしかもばあちゃん又は、兄さん達夫婦にまぁ、預けて行っとるから一つもそういう心配はないわけですね。
 いじめられているとか、又はその食べれんものは食べれるじゃろうかと、いうな心配もさらさらないわけです。それでもその子供がまぁ、けなげな事をなんか言うたち言ったんでしょうよね。もうそれを見たら途端に悲しそうになってからね。その今でも帰りたいような思いが致しますと。だからお互いそれぞれのその泣きどころというものをがあるわけです。いうならばあのどこの運動場でもそうでしょうけれども。あの大概転ぶ所は決まっとるですね。
 あの私がその小学校ですが。もう必ずあの東北野角で必ず転ぶです、転ぶ時にはね。だからあそこでは転ぶけん用心しなさいと。皆が言われとるけれども転ぶです。ですから自分が失敗する。例えばもう子供がどげな事言うちゃった。びくともしないぞと言った様なものをもっておる時なら。もう、ははぁ神様はこれで修行させて下さると頂けるのだけれども。迂闊にしている時にそこを通ると、そこでまた転んで又やり直さんならんという感じがするんです。結局身拵えができていないのですね。
 どう言う所に行き当たってもおかげを頂かせてもらう。そしていうならばそういう言うならば幾つも幾つもならまぁ、頂上を極め登山というものはこんなにも素晴らしい。こんなにも楽しいものであると言う事を是にも書いておる。信心とは楽しゅして有り難うしてと。とにかく一時の御祈念の鐘が鳴ると御神前に出てまぁ、合楽のもんだけでありましょうけれども。さぁ今から合楽の時間に合わせてともう心が躍るような思いがすると言うな意味の事を書いております。ね。
 ですから是はならお互いの場合でも、同じ事が言えれるのですけれども、そしていうならばどこからいうならば、虫がつこうとしておるか分かりません。不思議に例えばその甘いものとか若い芽と言った様な芽に虫がつきやすいです。信心の喜びの芽が出た途端にです、ぐしゃっとする様な事がないようにね。いうならばあの今日の手紙を読ませて頂きながら頂きましたこれからの登山という。
 はぁこげなん山登らにゃらんとはちょいと情けない事である。ではもう絶対信心を極める事は出来ません。どういう峠があってもそれこそ信心でそれによって力を頂くぞ。いやむしろ例えば登山をする人達がね、重いリュックを担いでそしてその高い山に挑んでいく。その喜びとか楽しみがあるように。信心も同じ喜び楽しみを感じてのいわゆる、信心登山とでも申しましょうかね。おかげを頂かなきゃならんと思います。
   どうぞ。